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アラメダ (カリフォルニア州) : ミニ英和和英辞書
アラメダ (カリフォルニア州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラメ : [らめ]
  1. (fr:) (n) lame 2. (fr:) (n) lame
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

アラメダ (カリフォルニア州) : ウィキペディア日本語版
アラメダ (カリフォルニア州)[す, しゅう]

アラメダ()はアメリカ合衆国カリフォルニア州アラメダ郡の都市。アラメダ島とベイファーム島に位置しており、オークランドの西に隣接している。またサンフランシスコ・ベイエリアの一部であり、サンフランシスコ湾を挟んでサンフランシスコサウスサンフランシスコに向かい合っている。
ベイファーム島の一部は「ハーバー・ベイ・アイル」とも呼ばれるが、実際には自然島ではなく、本土のオークランド国際空港と地続きになっている。2014年の推計人口は75,467人。アラメダは市憲章を持つチャーター・シティであり、様々な政治体制を規定することができる。市は1916年にチャーター・シティとなり、シティー・マネージャー制が採られ、現在もその制度を維持している。
== 歴史 ==
アラメダ島はもともと半島で、オークランドと繋がっていた。半島のほとんどは低地か湿地であったが、オークランドのダウンタウンに接している部分は標高が高く、世界有数のオークの自生地帯である。
この地域はかつてスペイン語で「常緑樹のオークの森」という意味のエンシナル(Encinal)と呼ばれていた。
アラメダ(Alameda)はスペイン語で「ポプラの木が育つ場所」や「並木道」という意味で、1853年に住民の投票によって選ばれた。
18世紀後半にスペイン人がこの地にやってきた頃、ここにはオーロン族の一団が暮らしていた。半島は広大なランチョ・サンアントニオの一部となり、カリフォルニアを獲得したスペイン王からルイス・ペラルタに与えられた。この土地は後にスペインから独立したメキシコに承認された。
やがて、この場所はボルサ・デ・エンシナルまたはエンシナル・デ・サンアントニオと呼ばれるようになった。
市は1853年6月6日に設立された。当初はアラメダ、ヒバーズビル、ウッドストックの3つの小さな開拓地に分かれていた。アラメダはエンシナル、ハイストリーツの2つの村のことを表していた。ヒバーズビルはノースショア・フェリー船舶ターミナルにあった。ウッドストックはサウス・パシフィック・コースト鉄道とセントラルパシフィックのフェリーの桟橋のすぐ西にある。
その後、セントラルパシフィックフェリーの桟橋はアラメダ・モールになり、サンフランシスコ・フェリーとトロリーバスやサザン・パシフィック鉄道(以前のセントラル・パシフィック)の通勤路線との乗り換え接続の場となった。
1854年には最初の郵便局が開設された〔。1864年にはサンフランシスコ&アラメダ鉄道の駅が開業した〔。エンシナル地域にはフレデリック・ルイス・ファスキングに因んだファスキングス駅があることで知られていた〔。
エンシナルの郵便局は1876年に開設され、1877年にウェストエンドという名前に変更されたが、1891年に閉鎖された〔。当初は、ウェストエンド地域は初期の開拓者チャールズ・G・ボウマンに因んでボウマンズ・ポイントと呼ばれていた〔。
1869年9月6日、サンフランシスコ・ベイエリアからの大陸横断鉄道の列車が到着するアラメダ・ターミナルが開業した。2か月後の1869年11月8日に大陸横断鉄道の終着駅はオークランド・モールへと移設された。
1872年、市の境界は島の全体まで広がり、ウッドストックを市に編入した。マーク・トウェインはアラメダを「カリフォルニアの庭」と表現した。
1917年、ネプチューン・ビーチとよばれる遊園地が現在のクラブ・コーヴ地域に建てられた。ニューヨークのコニーアイランドと度々比較されたほどで、1920年代から1930年にかけて主要な呼び物であった。遊園地の最初のオーナーであるストリーロ家は、地元の製菓業者と提携して個性的な製品を製造した。スノーコーンやアイスキャンディーポプシクル)はネプチューン・ビーチで初めて販売された。
ストリーロ家はビーチを所有し経営を行ったほか、湾の一部にオリンピック規格を満たしたスイミングプールを作り、また湾の素晴らしい景色を味わうことのできる並外れたローラーコースターを設置した。
ネプチューン・ビーチの2つの巨大な屋外プールでは、オリンピック選手のジョニー・ワイズミュラー(後に『類猿人ターザン』でターザン役を演じた)、スポーツクラブチェーンの創業者ジャック・ラランなど、著名なスイマーがレースやエキシビジョンを行った。
世界恐慌の煽りを受けたこと、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの完成、入場料を支払わない人の増加、車文化の発達など様々な理由から1939年にネプチューン・ビーチは閉園した。
ベイブリッジか完成した当時、アラメダ・モールやフェリーターミナルへ向かう線路の途中にあったネプチューン・ビーチは通過され、大勢の乗客を失った。町の若者たちは入場料の10セントを払わずにすむ方法に気づいていた。泳ぎが得意な者や、あるいは水中を歩いて渡ってくればこっそりと忍び込むことができた。
人々は車で街を離れはじめ、アラメダのようなすぐ隣にある郊外や、カリフォルニアからさらに遠く離れた場所へと向かっていった。アラメダは遠方のリゾートとしての地位を失い、サンフランシスコの裕福な旅行者にとってはより魅力的な場所になった。
現在でもネプチューン・ビーチの時代の住居、建物は残っている。ウェブスター・ストリートとセントラル・アベニューの角にあるクロール・ビルディングにはクロール・ガーデンズ&ホテルがあり、ここでは1883年から1914年にかけて偉大なボクサーがトレーニングをしていたことで知られている。
ジェームス・J・コーベットボブ・フィッシモンズジェームス・J・ジェフリーズジャック・ジョンソン、他にも多くのチャンピオンがここでトレーニングを積んだ。現在、美しく保たれた建物にはクロールズ・ピザと1400バー&グリルレストランが店を構えている。
ちょうど1ブロック先、セントラル・アベニューとマッケイ・アベニューの角にあるネプチューン・コートでは、1920年代のアラメダのようなリゾートライフがもう一度見られる。
ネプチューン・ビーチの建造物の大部分、デンツェル社製の手掘りの回転木馬や観覧車、ローラーコースター、他にも多くの乗り物が1940年代に二束三文でオークションにかけられた。1940年ごろにネプチューン・ビーチが閉園したのは、全体的な質の低下と、街の真新しい水泳施設が影響していたとされる。1960年代初頭まで、2つの高校と2つの公園にスイミングプールを建設するという草の根運動が続けられていた。
街に鉄道が敷かれた1860年代、パーク・ストリートは街の大通りとして開発され、またアラメダ駅から近いことから、旧アラメダ市街地の住人はこの新しいダウンタウンへと移っていった。パーク・ストリートの場所は、テナントを引きつけ土地を発展させようと望んでいた2人の地主によって選ばれた。彼らは土地の境界線をパーク・ストリートで示すことにした。
1902年、港湾施設の拡充が必要になったことから、オークランドとアラメダ間の湿地帯に運河が浚渫され、アラメダは島となった。浚渫で出た土は湿地の埋め立てに使われた。ベイファーム島と呼ばれていた地域はもはや島ではなくなり、盛り土によってオークランドと接続された。
ジャック・ロンドンは若い頃、ベイファーム島近くの生産性の高い牡蠣養殖場で牡蠣の密漁に加わっていたことで知られていたが、今となってははるか昔のことである。アラメダ・ワークス造船所はアラメダ郡で最も大きく、設備の整った造船所であった。1950年代、造船業などアラメダの産業はアラメダ水道に沿って繁栄した。
現在、水道を跨いで位置するオークランド港は西海岸で最大級の港の一つであり、当初アラメダで試みられていた造船の技術が用いられている。
アラメダ・モールから出る定期列車に加え、市内にはサザン・パシフィック鉄道(当初はセントラル・パシフィック鉄道)によって蒸気機関車の走る通勤路線が敷設された。
この路線は後にイーストベイ電気鉄道の路線へと変わった。サザンパシフィック鉄道の電車は路面電車ではなかったが、フルサイズ規格の列車で大陸部とはウェブスター・ストリートとオークランドのフルートベールに架かる橋(後者のみ現存)で接続していた。列車はオークランド・モールとアラメダ・モール間を走っていた。
実際には、2つのモールを結んでいた路線は地図上での形から「ホースシュー・ライン(蹄鉄線)」と呼ばれていた。サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジが完成してすぐに、アラメダの列車は橋の下側のデッキを通ってサンフランシスコと直接結ばれるようになり、フェリーを使うことは不要になった。アラメダにあったサザンパシフィック・ウェストアラメダ工場では列車のメンテナンスや修理がされていた。
1930年代、パンアメリカン航空はアラメダ・モールに通じる盛り土に沿って水上機の基地を建設した。大型飛行艇のチャイナ・クリッパーはこの基地を拠点としていた。カリフォルニア大学は現在のウェブスターストリート・トンネルの近くに公共飛行場としてサンフランシスコ・ベイ飛行場を開設した。
1930年に飛行場の洗礼命名式が華やかに行われた。飛行場は活気があり、初期にはコースタル・エアフライト、バーニー・エアラインズ、ウェストコースト・エアトランスポート、ウェスタン・エアーエクスプレス、トランスベイ・エアフェリーズ、ボーイング社などの拠点があった。第二次世界大戦の開戦と共に、アラメダ・モールの南西に広大に広がる湿地は埋められ、アメリカ海軍アラメダ航空基地が建設された。
新たに建設された基地に航空交通を干渉されたことから、飛行場は1941年に閉鎖した。
この海軍施設には広い飛行場もあり、航空母艦のドックもいくつかあった。基地は1997年に廃止された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アラメダ (カリフォルニア州)」の詳細全文を読む




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